本と戯れる日々


今まで紹介してきた本は900冊以上。
ジャンル問わず気の向くまま読書しています。

新・冒険論


本書を一言で表すと、冒険者である角幡唯介氏が冒険の意義を語った本ということになります。

そもそも冒険の本質を語ることを目的とした本が皆無であり、かなり珍しい切り口で書かれた作品だと言えます。

かつて世界地図に空白があった時代、人類が誰も到達したことのない場所(極点など)が存在していた時代であれば、たとえ無謀な冒険であったとしても地理学、科学的に新しい知見を得るため、または新しい市場を切り開くといった皆が納得しやすい合理的な理由をつけることができました。

しかし今や地球上に地図の空白地は存在せず、それどころか衛生やインターネットにより誰もが地球上のあらゆる地域を調べることができる時代になりました。

一方で今でもエベレストへの登頂を目指す人は沢山いますし、大自然を舞台とした過酷なアドベンチャーレース、世界一周ヨットレースなどが開催されていますが、著者はそれを冒険とは呼べないと断言しており、それには私もなんとなく同意できます。

例えばエベレスト登山であれば商業ツアーによってマニュアル化されており、大自然の中で行われる過酷なレースであってもルールが存在し、主催者が参加者の安全を保全しようとしているからです。

角幡氏は冒険のキーワードを"脱システム"という言葉で説明しています。

現代においてはさまざまな要素が重層的かつ複雑に絡み合ってシステムが構築されており、そこから脱却することは容易ではありません。

ここは本書の"核"となる部分であり、かなり長くなるので説明は省きますが、私たちにも当てはまる具体的な例を上げると、カーナビやインターネット検索を用いない昔のように地図だけで自動車旅行を行うのが面倒なことが挙げられます。

カーナビ無しではじめての土地を訪れれば道に迷う可能性が高まりますし、ネット検索ができなければ人気の観光地や飲食店を探すのに手間がかかることが容易に想像でき、こうした手軽で便利なシステムを利用しない旅行は苦痛に感じるはずです。

それは冒険でも同じことが言え、あえてGPSや通信手段を持たずに極地を探検したり、ガイドや軽量で防寒性に優れた装備なしにヒマラヤの山に挑戦することが不便であり、しかもそれが自身の生還率の低下に直結します。

またもう1つ冒険に欠かせないキーワードとして"自由"を挙げています。

本書における"自由"とは、"自分の命を自力で統制できている状態"を指しています。

例えば壁にボルトを打ち込みアブミを使うことで登攀の手段の自由が奪われ、GPSを用いれば機械にナビゲーションされることで自由が奪わえます。

つまり冒険における自由とは、わずらわしく、面倒くさくて、ときには不快でさえあるものであり、一方で自由とともに手にした責任とは、判断を間違えれば自分や仲間の命を失われてしまう危険があるものなのです。

つまり安全や成功の確実性を手に入れようとすればするほど脱システムから遠ざかってしまうことに現代の冒険のジレンマがあります。

しかし現代において冒険に値するものが絶滅したかといえばそうではなく、本書にはその具体的な例が挙げられています。

またSNSが発達した現代において、不特定多数の人びとが危険、無謀、迷惑だと批判するような冒険をあえて遂行することで、それらがもたらす社会的意義についても言及しています。

ビジネス書でも常識や慣習に囚われず、怖れず冒険をしようという言葉を見かけますが、本書で言及されているのはあくまでも冒険の中でもより根源的な"身体的な脱システム"のみに特化した内容になっています。

それでも冒険の本質を深く洞察することで、(職業という意味で)冒険者ではない大部分の読者へヒントを与えてくれるような1冊になっている気がします。

エベレストを越えて



植村直己といえば世界初の五大陸最高峰登頂を成し遂げるなど、日本を代表する伝説的な冒険家として知られています。

植村は1984年、43歳のときにマッキンゼー(デナリ)の厳冬期単独登頂中に消息不明となってしまいますが、アマゾン川の6,000km筏下り犬ぞり単独行による北極点到達など、その活躍のフィールドは登山というジャンルに留まりませんでした。

そんな植村にとってもやはり世界最高峰であるエベレストは特別な意味を持つ存在であったようです。

本書は約12年間にわたり、計3回に渡って挑戦した植村のエベレスト登頂の記録を1冊の本にまとめたものです。

  • 日本エベレスト登山隊(1970年)
  • 国際エベレスト登山隊(1971年)
  • 日本冬期エベレスト登山隊(1980年)

本書を読んでまず感じたのは、本業のノンフィクション作家並みに植村の文章が読者を引き込む魅力を持っているという点です。

その秘訣は所々で引用される植村自身の日記であり、そこには当時の状況だけでなく心情も細かく残されています。
つまりこの日記を元に執筆しているため、リアリティ溢れるノンフィクション作品として楽しめるのです。

とくに1回目の登山では、植村が日本人初のエベレスト登頂者となります。

2回にわたる現地探索、そして本格的な登山に備えて現地で越冬しながら登頂の準備を続けながらも、シェルパ族との交流を描いた日々が印象に残ります。

当時はまだエベレストが商業登山化する以前の時代であり、現代に比べ装備も情報テクノロジーも未熟だったためエベレスト登山は危険性の高いものでした。

そこでは登山隊メンバーやそれをサポートしたシェルパ族が亡くなるといった不幸な事故も起こっており、それを目の当たりにしている著者自身だからこそ書ける描写が随所に見られます。

植村直己というと単独行というイメージがありますが、エベレスト登山はいずれもチームで行われたものであり、そうである以上チームワークが重要になりますが、2回目のエベレスト登山では登頂が近づくにつれ、各国から参加したメンバーたちの間に亀裂が入り、チームが空中分解してしまう過程もよく描かれており、興味深く読むことが出来ます。

3回目の登山では自らがチームを率いて冬期エベレストへ挑戦することになります。
これまでの与えられた役割だけをこなすことに集中していた頃とは違い、隊長としてメンバーの命を預かるという立場がいかに重いものであったかを本書の中から感じることができます。

本書は植村自身が体験した冒険譚であるとともに、過酷な自然へ対して人間が挑戦するドキュメンタリー作品でもあるのです。

チベット遠征


中央アジアの探検家として有名なスヴェン・ヘディンが、チベットを探検したときの記録です。

20世紀初頭になり、多くの探検家たちによって世界地図がどんどん埋められてゆきましたが、北は崑崙山脈、南はヒマラヤ山脈に囲まれたチベットは地図上の空白地が残された数少ない秘境でした。

本書には3回に及ぶチベットへの探検が記録されていますが、探検というと勝手に単独、または少人数で行われるというイメージを持ちますが、中央アジアを探検した「さまよえる湖」の時のようにいずれも大規模なキャラバン方式で行われました。

それでもヘディンは次のように嘆いています。
私が自由にできる資力はあまりにも乏しい上、私のキャラバンは小さく、二十一頭の馬、六頭のラクダ、三十一頭のロバから成るものだった。

ずいぶんと贅沢だと思いますが、それはチベット遠征にあたってヘディンにはロシア皇帝ニコライ2世というパトロンが存在していたからです。

しかもその裏には、いずれロシア自身が南下して領土を広げる時に備えてチベットの地理を知っておきたいという政治的な思惑があったことは当然です。

一方でチベットは、南に位置するインドがイギリスの植民地となった過去を教訓に、外国人(とくに白人)の入国を厳しく取り締まっていました。

ヘディンにとって過酷な自然環境が脅威だったのはもちろんでしたが、もっとも厄介な障壁はダライ・ラマと頂点とするチベット政府の軍隊でした。

つまりヘディンが探検したチベットは地図上の空白地ではあっても無人の荒野ではなく、はるか昔から人が住み、ラマ教(チベット仏教)と中心とした独自の文化を持つ国家であったからです。

結局、1回目の探検の目的であったラサへ変装してまで潜入しようとした試みは失敗に終わります。

2回目、3回目の探検ではラサを目指さず、地理的な探検に特化しますが、ヒマラヤ山脈の北に平行するようにそびえ立つトランスヒマラヤ(ガンディセ山脈)の発見、インダス川をはじめとするインドを流れる大河の水源探査など、学術的な面で多くの成果を上げてゆきます。

もっとも1回目の探検から2回目の探検に至るまでの間にイギリスによるラサ侵攻が発生し、ダライ・ラマはモンゴル、続いて中国へと亡命し、この時のチベットの最高指導者はパンチェン・ラマ(タシ・ラマ)に変わっており、寺院都市として有名なシガツェにおいてヘディンと友好的な関係を築いたようです。

中央アジア探検時と同様に、本書にはヘディン自らが書き残したスケッチが200点以上掲載されており、目でも読者を楽しませてくれます。

ヘディンの本職は学者であり、学術的な著書や報告書は膨大な量になるようですが、本書は探検資金捻出を目的に特にアメリカの一般読者を狙って執筆されたものであるため読み易い内容になっています。

今やチベットは中国の自治区に組み入れられ、青海チベット鉄道をはじめとした開発が行われ、もはや秘境とは言えない場所となりましたが、100年以上前のチベットを探検するヨーロッパ人の視点から書かれた本として興味深く、探検記であると同時に歴史としても楽しむことができます。

弔辞


以前レビューした「コロナとバカ」に続いてビートたけしの著書です。

本書を2冊目に手に取ったは、「弔辞」というタイトルになんとなく惹かれたのと、出版元がフライデー襲撃事件を引き起こした講談社であるという点です。

もっとも事件は40年近く前の出来事であり、すでに両者の間にわだかまりはないようです。

タイトルについてたけし本人は次のように述べています。
俺は、この時代に向けて、「弔辞」を読もうと思った。
たとえ、消える運命にあるものでも、それについて、俺自身が生きているうちに別れのメッセージを伝えておこうと考えた。
まもなく、ひっそりとなくなってゆく物事や人々に対して、誰かが言っておかなくちゃならない、覚えていてほしいって思うからだ。

ビートたけしは昭和22年生まれだから今年で77歳ということになります。

著者とは世代は違うものの、自分が生きてきた時代を後世へ伝えておきたいという気持ちは、何となく分かる気がします。

肝心の次の世代へ残したい内容は、自らが過ごしてきた昭和という時代であることはもちろん、芸人のしての足跡、さらにはビッグ3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)の1人として築き上げてきたTV番組全般を指しています。

まず本書から感じるのは、テレビ黄金時代を懐かしむというよりも、俯瞰して現在、そして過去を振り返っているという点です。

たとえば自身が真剣に工夫を続けてきたお笑いを次のように語っています。
お笑いは所詮お笑い、エンターテイメントは所詮エンターテイメントです。
その時代や自分の身に何も起こらなければ楽しいという、それだけのことであって、世の中を救うわけでも、人様の役に立つわけでも全くありません。

私自身はビートたけしがTVで全盛期の活躍をしていた時代が直撃した世代であり、それなりに影響を受けてきたと思いますが、なんだか拍子抜けする発言です。

それでも丹波哲郎を引き合いにして、死後どこへ行くなんて正直、どうでもいいことだと言い放っている点はかつての舌鋒を彷彿とさせてくれます。

本書で印象に残ったのは次の部分です。
最近、「たけしはテレビで喋らなくなった」って言われる。
違うんだよ。俺、収録ではよく喋っているんだ。
だけど、テレビ局が意識的に録画を増やしていて、ちょっと放送するとヤバそうなコメントは局のほうで判断して事前に外しているんだ。
だから面白いことをずいぶん喋ったつもりなのに実際の番組では無口に見えてしまう。

ここでの"ちょっと放送するとヤバそうなコメント"というのは、かつては問題視されなかった発言が、コンプライアンス遵守やスポンサーへの配慮が敏感になった昨今の風潮によるものだと思いますが、やはりこれが最近のTVをつまらなくしている大きな原因であると思わずにはいられません。

おそらくビートたけしという存在は、芸人として破天荒な生き方が許された最後の世代であり、それだけにタイトルの"弔辞"という言葉が読了後も心に残るのです。

左近 (下)


島左近の生涯を描いた、火坂雅志氏の絶筆となった「左近」下巻のレビューです。

絶筆となったため本作品は未完ではあるものの、単行本の上下巻でそれぞれ400ページにも及ぶ分量であり、個人的には8割方まで執筆が進んでいたのではないかと思います。

念願の大和統一を果たした島左近が仕える筒井順慶ですが、実質的には織田信長の勢力下に組み入れ、京都周辺の軍事作戦を担当してた明智光秀の与力大名という位置にありました。

しかし光秀が主人・信長を相手に本能寺の変を起こしたことから筒井家の命運が大きく左右されることになります。

結果として左近をはじめとする重臣たちの判断により筒井家は秀吉と光秀が戦った山崎の戦いに加担することになく、秀吉の時代になって伊賀へ移封されることになるものの、引き続き大名として存続することになります。

一方で若くして病死した順慶の後を継いだ定次が暗愚であり、どんな苦境にあっても筒井家へ忠誠を誓い続けた左近はついに出奔することを決意します。

このときの左近はすでに50近い年齢でしたが彼の武勇は鬼左近として全国的に有名であり、筒井家を辞した直後から各国から仕官の要請がありましたが、それらをすべて断っていました。

その左近を三顧の礼のような形で迎え入れたのが石田三成であり、19万石の城主であった三成は左近へ破格の条件である2万石の俸禄を約束します。

高禄にも関わらず、世間は左近を召し抱えた三成を次のように評しました。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

三成は武将ではあるものの、秀吉政権下にあって五奉行に任じられたいわば官僚であり、合戦での実績が圧倒的に足りていませんでした。

事務官として優秀な三成でしたが、ときには冷淡と思われようが意に介さず忠実に任務を遂行してゆくため、福島正則藤堂高虎をはじめとした実戦経験豊富な武将たちから蛇蝎のごとく嫌われていましたが、歴戦のつわ者である左近の存在は石田家に箔をつける意味でも重要な存在でした。

一方で秀吉へ対して紛れのない忠義を尽くす三成の心情は本物であり、かつて筒井家へ忠義を尽くしてきた左近はその姿に感銘に近いものを受けるのです。

そんな三成だけに豊臣家へ対して上辺だけの忠誠を誓う家康へ対しては早くから警戒心を抱いており、結果としてそれは杞憂には終わりませんでした。

ちなみに上巻で左近の好敵手として登場したのは柳生宗厳でしたが、作品が完結したときに左近の好敵手となるべき存在は藤堂高虎だったはずです。

8度も主君を変えたといわれた高虎ですが、それは日和見だったわけではなく、つねに最前線で自らの命を的にしながら戦い続けてきた武将であり、その点では左近と共通するものがあります。

残念ながら未完の作品であるため関ヶ原の戦いが作品中で描かれることはありませんでしたが、文学作品が結末を明らかにせずに完結することが多いように、惜しいとは思うものの途中で終わってしまうこと自体はそれほど気にはなりませんでした。

作品のはじめから終わりまで左近は左近であり続け、戦国武将としての生き様を全うすることが分かっているからです。